みなさん、こんにちは。
皆さんは1988年から1989年に起きた日本史上最悪とも言われている幼女連続殺人事件をご存じでしょうか?
4人の幼い少女を次々と誘拐し殺害、戦後の犯罪史上類を見ない劇場型犯罪で、自らを「今田勇子」と名乗りマスコミ宛に送った犯行声明文が警察への挑戦とされ、世間を騒がせました。
1989年に実行犯として逮捕され、後に死刑判決となり2008年に執行されたのは、宮崎勤という男性でした。
宮崎勤の一族の末路
再現ドラマ”土曜プレミアム「衝撃スクープSP 30年目の真実 ~東京・埼玉連続幼女誘拐殺人犯・宮崎勤の肉声~」より宮崎家へ報道人が集まる様子
公開された住所
「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の後、宮崎勤の両親や2人の妹、その他の親族の元にも「お前らも死ね」「殺してやる」など脅迫の手紙が多数届いていたそうです。
当時の事件は新聞に特定の住所が公開される時代でした。
事件の1年後にはこちらの家は更地にされ、宮崎一家は引っ越ししました。
その4年後にはこの土地は売りに出されたようです。
※追記※
宮崎勤の実家の跡地は2023年現在では整地されており、「和み広場」の看板が立てられ老人のゲートボール場として使われていることが分かっています。
宮崎勤の父親の自殺
土地売却によって得たお金を遺族に送金するよう手配した後、京都青梅市の多摩川にかかる30メートルの高さのある神代橋から投身自殺を図り、亡くなりました。
生前、宮崎勤の父親は、インタビューで「家族である私たちが責められるのはわかるが、直接関係の無い一族までが非難され仕事を失うことになったことに悩んでいる」とのコメントを残しています。
宮崎勤の姉妹2人
妹2人がいた宮崎勤。長女は勤めていた会社を辞め、すでに結婚間近だったのですが自ら婚約を破棄しました。
次女は在学していた看護学校にいられなくなり、自主退学に追い込まれたそうです。
その後は妹2人のの消息については明らかにされていないようです。
母親は死刑執行直前まで息子と連絡を取っていた可能性がある
宮崎勤の母親についてその後の消息については明らかにされていないようです。
しかし宮崎勤が起こした「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の頃まで暮らしていた自宅近くの寺に、お墓参りに来ていたところを近隣の住民に目撃されています。
宮崎勤と12年間関わり彼と直接手紙のやりとりがあったジャーナリストの話では、母親も登場しています。
宮崎とは12年間のつきあいで、彼の手記は相当『創』に掲載してきたのだが、何せ死刑囚の独房の生活は単調で、最近聞いたラジオ番組とか治療のことといった話が続くために、私は一時期、しばらく彼が送ってくる手記を掲載しないでいた。それに対して宮崎は不満を漏らし、母親経由で掲載依頼を送ってきた。
宮崎勤の死刑が執行された後、宮崎勤の母親は遺体との対面を果たしているようですが、その後の処置を拘置所に任せたとも言われています。
母親としてやるべきことを成して最期は終わらせたかったのかもしれませんね。
最期の言葉は2つの説がある
宮崎勤が死刑執行された東京拘置所
2008年に東京拘置所で死刑執行となった宮崎勤。
彼が最期に放った言葉には2つの説があります。
1-「あのビデオまだ途中なのに」
こちらは有名は言葉のようで、ネットで調べるとこの台詞が一番出てきました。
独房内ではビデオを見ることが許されており、宮崎勤死刑囚はスタジオジブリ作品などを好んで観ていたそうです。
死刑囚は死刑執行当日に突如知らされるので、何かを見ている最中に放った言葉の可能性がありますね。
この言葉について世間の見方は「事件について反省の色がない」としています。
2-「私は世間に勘違いされた。本当は、優しい人間だと伝えてほしい」
いずれにせよ2つの説を見ると犯人像からくるイメージがまるで違いますよね。
宮崎勤の最後の言葉は本当にこのどちらかなのでしょうか?はたまた全く異なる可能性もあります。
死刑の執行は検察官、検察事務官及び刑事施設の長又はその代理者の立会いの上で行われます。
死刑を執行の際は「言い残すことはないか」と問われるようなので、宮崎勤が何かを語った可能性は十分にあるといえますが、その内容を知るのは難しいことのようですね。
まとめ
今回は日本史上類を見ない残虐非道な事件の実行犯の家族のその後について紹介しました。
事件の容疑者は逮捕されると、当の本人は身柄を拘束され、世間からシャットアウトされた場所に身を起くことになります。
しかしその一方で家族は報道陣に囲まれ、プライバシーは明らかになり引っ越しを余儀なくされたりなど、生活が一変してしまいます。
ここまで加害者の家族が生きづらい国なのは、日本だけみたいです…。
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