みなさん、こんにちは。
みなさんは27年前、ペルーの日本大使館がテロリストによって占拠された事件をご存知でしょうか?
テロリスト組織MRTAによって600人を超える人質が監禁され、全員の解放までに4ヶ月もの時間を要した日本史上初めての大使館テロ犯罪です。
今回はペルー大使館で人質となってしまった日本人らについて調査しています。
【ペルー大使館公邸占拠事件】人質の日本人は誰?
ペルー大使館公邸占拠事件で人質になった日本人は日本大使館を含め24人いました。
占拠された当日は天皇誕生日を祝うレセプションパーティーが開かれており、邸内にはペルー政府要人、各国の大使、日本企業の代表者、日系人社会の人たち、日本大使の青木盛久氏含む大使館員でした。
事件終結の最後まで人質にされたのは日本人含む72名だったといいます。
ここでは人質として監禁された日本人を一部ご紹介させていただきます。
青木盛久さん
駐ペルー特命全権大使を務めていた青木盛久さん。江戸時代後期に蘭方医だった周弼の子孫に当たります。
外務省を辞めた後もペルー大使館公邸占拠事件の全容についてマスメディアを用いて真相を語っています。
久々に青木盛久大使さんの著書を読みました。
私の永遠の憧れの夫妻です。
著書を読んでると奥様も素晴らしい方です。 pic.twitter.com/VuDmNP9O8a— Pacceli Cardinal (@mi_ri12) September 2, 2020
津村光之さん
ペルーで旅行会社を営む津村さんは事件に遭遇し人質生活を経験しました。実際に拘束されたのは7日間~10日間のようです。
小倉英敬さん
小倉さんは当時ペルー日本大使館員でレセプションの主催者側のひとりでした。
在ペルー日本大使館では政務担当書記官として勤務していたそうです。
人質に対し銃口を突きつけることもなく、大使館への侵入時以外は武力的でなかったテロリストに対し武力制圧という形を取った政府のやり方に異論を唱えていました。
小倉英敬一等書記官(当時)は、結果オーライの無謀な作戦だったと明かす。ゲリラが起爆装置を押せば大惨事だったことを指す。ゲリラは突入時も人質に発砲せず部屋を立ち去った。番組では、捕虜になったゲリラを兵士が超法規的に処刑したことには触れていない。
— アジア記者クラブ(APC) (@2018_apc) October 23, 2021
酒井芳彦さん
当時のペルーで味の素社長として勤めていた酒井さん。
拘束された127日間の生活の中で、奥様と娘らを想い70通以上のお手紙を送り続けたそうです。
また犯行グループのメンバーにピアノを教えたというお話もありました。
昨日の朝日新聞・夕刊トップは、20年前に起きた日本人ら72人が左翼ゲリラに拘束されたペルーの日本大使公邸人質事件の記事。当時、ペルー味の素社長だった酒井芳彦さんは127日間の人質生活の中で公邸内から妻と三姉妹のお嬢さんに71通の手紙を送り続けたとか。誕生日には手作りのカードまで。
— 優 慧太(三姉妹総研) (@sugurukeita) September 7, 2017
丸紅の重役
丸紅の重役が人質に取られていたという情報がありましたが、お名前については知ることが出来ませんでした。
丸紅の社名を見ると在ペルー大使館事件で人質になった当時の重役のインタビューを思い出す あれで丸紅という企業を初めて知った
— 倉 (@lowdamper) September 8, 2023
フジモリ大統領の母親と妻
当時のペルー大統領であったアルベルト・フジモリ氏のお母様とその妻も人質になりました。
MRTAはあまりに多くの人質を管理できないと判断し、女性や病気を持っている人などを優先して数十人単位で何回かに分け人質を解放しています。
その為、大統領の母と妻の拘束時間は長くありませんでした。
全員が無事だった理由は?
127日間にも及ぶ監禁生活の中、日本人の犠牲者は誰1人いませんでしたがその理由をまとめてみました。
- 日本政府の”平和的解決”の要求
- 127日間に渡る拘束期間で芽生えた日本人との絆
- そもそもMRTAは日本人に危害を加える予定はなかった?
それぞれ詳しく見ていきましょう!
日本政府による”平和的解決”の要求
当時日本の総理大臣であった橋本首相は、ペルー政府に対し人命優先・対話による平和的解決を要求しました。
ペルー政府側は武力による突入も辞さない強気の姿勢だったそうです。
結果的に武力行使による作戦が実行され、橋本首相への事前通告はなかったとされていますが、日本が”平和的解決”を要求しなければ4ヶ月の猶予はなく、より多くの犠牲者が出る結末となっていたと言われています。
長い拘束期間で芽生えたテロリストとの絆
長い拘束時間と犯行グループのメンバーのが若かったこともあり、テロリストと人質との関係性は良い方向に進んでいました。
円滑なコミュニケーションの為に日本語を学んでもらい、時には日本での遊びを一緒に楽しむなどの時間を過ごすことで絆が芽生えたと言われています。
▽詳しくはこちら▽

そもそもMRTAは日本人に危害を加える予定はなかった
リーダーさえもこっそり「安心して、日本人は殺さないから」と元メキシコ大使に。
そして、妻だけは釈放したいという本心を引き出し。キューバと話をつけ、テロリストの亡命を引き受けてもらい。
あとはフジモリ大統領さえ、うんといえば、誰も死なない平和的解決が叶ってた。
— 田村淳彦 (@AtsuTam) March 3, 2020
【ペルー大使館公邸占拠事件】人質の日本人は誰?全員が無事だった理由は?
いかがでしたでしょうか?
今回は26年前に起こったペルー日本大使人質事件で人質となった日本人について紹介しました。
3人の犠牲者が出てしまったことは残念ではありますが、奇跡的に日本人の犠牲者は出ずこうして事件の真実を執筆し、事件の裏側について記録を残した人たちがいることは大切なことだと感じます。
最後までご覧いただきありがとうございました!

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